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文体について


■[Critique][制度言語]ポスト〈セカイ系〉としての『ギートステイト』と、ライトノベル作家の文体についての疑問(改訂版)16 2007.07.14.


 宇野常寛氏がSFマガジンで連載している「ゼロ年代の想像力」について、東浩紀氏からの一応の返答(のような論考)が「ギートステイト」Webサイトに上がっていました。

■雑記:東浩紀

http://blog.moura.jp/geetstate/2007/07/post_406f.html

 以下は私がピンと来たところです。(強調は引用者による)

 セカイ系は成熟を拒否しました。決断主義は成熟に飛びついた——というよりも、成熟抜きで成熟したつもりになっていました。それに対して、ゼロ年代も後半のいま、私たちにとってもっとも必要なのは「小さな成熟」なのではないか(より正確に要約すれば、小さな成熟を通して大きな現実と折り合いをつける能力を養うことではないか)。これがおそらく宇野さんが言いたいことです。彼自身も自覚していると思いますが、この主張は、宮台真司から最近の若手社会学者にいたる流れとかなり一致しています。彼の文学論は、その点では、けっこうきちんとした政治的含意をもち、論壇的歴史を背負って出てきているわけです。[東2007]

 僕と桜坂さんがここで目指しているのは、「成熟できない」という居直りでも「あえて成熟」の開き直りでもありませんが、かといって「小さな成熟」を描き出していくことでもなく、そのような「小さな成熟」がいくつも林立し、たがいに衝突しあっている——いや、衝突しないくらいに離れている、そんな世界を提示しようという試みだからです。桜坂さんが「群像劇」という言葉で強調しようとしたのは、『ギートステイト』のそういう性格です。

 さらに補足すれば、これはつまり、セカイ系がある種のリベラルの文学であり(それはひとを傷つけてはならないという内向きの倫理の文学なので)、宇野さんが称揚するのがコミュニタリアンの文学であるとすれば、『ギートステイト』はリバタリアンの文学を目指しているということを意味しています。[同上]

 私も、「小さな成熟」という言葉で東さんが言わんとしていることについては強い関心を持っていて、その一つのアプローチとしてE.GoffmanやG.A.Fineの社会学・相互行為秩序・会話分析などの社会学的研究に注目しているわけですが、なるほど、東さんはそういうまとめ方をするのだな、と思いました。*1私は宇野氏の論旨や方法論には色々な見地から違和感を覚えていますが*2、少なくとも私は、かつてのウェーバーやデュルケムやドストエフスキーが志向したような形とはまた別の共同体主義に近い考え方を持っているという意味で「コミュニタリアン」志向なのでしょう。比較的。傾向として。

 おそらく『ギートステイト』で東さんがなんとなく予測している近未来は、その「小さな成熟」の先に用意されているかもしれないある種の限界、〈虚しさ〉なのかもしれないと感じました。確かに、「小さな成熟」をただ積み重ねていっても、その重ねあわせの結果が自ずと「大きな成熟」を導き出すという確かな論拠はどこにもないですからね。*3

 「自然形成される組織の規模は、『ギートステイト』ほど環境制御されてしまった近未来社会においてはどのように制限されてしまうのか」。確かに興味深いテーマだと思います。

 前から明らかではありましたが、このようなテーマは明らかに80年代サイバーパンクの発想からは生まれないものですよね。サイバーパンクはテクノロジーとアイデンティティとの相互影響関係についてはたいへん熱心でしたが、テクノロジーが社会倫理やその中に居る共同体を具体的に、どのように変容させるのかについては、ややステレオタイプで近視眼的なところがあったと思います。『ギートステイト』は、そちらの方面からの批判的視座を見たほうが、SFとして楽しめると思います。

 ただ……ここからはSF考証とはまったく関係ない愚痴になるのですが、惜しむらくは、桜坂さんの文章は特に特徴がないので、読む快楽というか、そういったものについてはいまいちものたりないのですね。東さんの設定考証文の方は、とても楽しく読めるのですけれども。文章それ自体の面白さでいえば、桜坂さんより東さんの方がよりdistinctiveだと思うのですが、これは私だけなのでしょうか。

 それと、すべてがそうだというつもりはありませんが、評判をたよりに私が手に取る数少ないライトノベル出身作家の書く文章の中には、ある種の業務文書風というか、「キャラクターを描写するために選ばれた制度言語」みたいなものに感じてしまうものがあります。ハイファンタジーに一家言のある人が数人注目していたので買ってみた『狼と香辛料』も、文章それ自体は、ありきたりの味気ないものでした。もうちょっと文章にクセがあってもよさそうなものですが。

 古典文学を読む私のライトノベルに対する〈読み〉そのものがスタイルとして古いといわれればそれまでですけれども、もし実際そうだというのであれば、どのような〈読み〉であればあの「物語専門新聞記者」のような文章を楽しく読めるのが、大変気になっています。そういえば『狼と香辛料』については、「これは文章にリズムなんかないな」と思ってしまってから、新聞を読むように、パッと「面で見て」意味を把握する読み方に切り替えてしまったのですが、その方がむしろ読みやすかったことにほんとうに驚いてしまいました。

 これが今風の読み方に近いのでしょうか。少し考え込んでしまいます。まるで、「さっさと読んでさっさと捨ててくれ」とでも言われているかのような一抹の寂しさを覚えます。

 10年前に私達80年代の若者が『スレイヤーズ』や『ブギーポップ』を読んでいた頃、10歳上の人たちの一部は、同じことを感じていたのかしら。それとも、そうではなく、これは今ならではの、独特の現象なのかしら。私にはわかりません。

 ところで余談ですが、『アヴァンポップ』などの80年代サイバーパンク・ムーヴメントを扱ったことのある英米研究者・巽孝之氏が、今年の8月末から9月冒頭かけて行われる横浜のSF大会で、この東・桜坂両氏と一緒に、サイバーパンクについてのパネルディスカッションを行うそうです。これはさすがに行かないと後悔しそうなので、今からスケジュールに組み入れておこうと思います。



*1:もちろん、東さんは「リバタリアン最高」と言いたいのではなくて、それを徹底的に思考実験することを通じて、リバタリアニズム社会の中に生きる自分とその他大勢、みたいなものを見極めたいのだろうと私は推測していますけれども。

*2:たとえば東が『ゲーム的リアリズムの誕生』で取り上げている『ひぐらしのなく頃に』シリーズは、ゲーム構造として〈セカイ系〉の特徴を持っているが、その解決方法についての初期の思考はまったく〈決断主義〉的である。しかも『ひぐらし』は、シリーズ後半において、その〈決断主義〉をより高次な点から批判するものとして〈共同体主義〉を提出してしまっている。いささかファンタジックな過程ではあるが、基本的にはそこに「小さな成熟」があると見てもさしつかえのないものだ。だから、もし宇野氏の〈セカイ系〉〈決断主義〉の双方に対する憤りがまっとうだとしても、その弁証法的な解決の先には、すでに『ひぐらしのなく頃に 礼』が存在してしまっており、彼の議論はまるで無意味なのではないか、と私は考えている。つまり、私は『ひぐらし』を、ネタバレを回避するのが惜しいほど評価しているということでもあるのだが。

*3:ところでこの〈成熟〉というタームは、社会思想系の人々によって頻繁に用いられているが、どうにも多義的で、自分の考えている文脈とその他の人々が考えている文脈とが合致しているか、実のところいまいち自信がありません。みんなどういう定義で使っているのでしょう。

URL:http://d.hatena.ne.jp/gginc/20070714/1184372477



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■ライトノベル作家の文体19

この種の意見に当たったのはなにも今日が初めてではないけれど。


ポスト〈セカイ系〉としての『ギートステイト』と、ライトノベル作家の文体についての疑問(改訂版)

それと、すべてがそうだというつもりはありませんが、評判をたよりに私が手に取る数少ないライトノベル出身作家の書く文章の中には、ある種の業務文書風というか、「キャラクターを描写するために選ばれた制度言語」みたいなものに感じてしまうものがあります。ハイファンタジーに一家言のある人が数人注目していたので買ってみた『狼と香辛料』も、文章それ自体は、ありきたりの味気ないものでした。もうちょっと文章にクセがあってもよさそうなものですが。

うーん、ライトノベルの読み方なんて個人の自由。つまり文章に重きをおいても勝手というものなのですが……

ぶっちゃけ文章に酔いたいなら、ライトノベルに時間割く必要はないというかむしろ期待しても不幸になるだけでしょうね。

だって、多数派の読者は流麗な文章など別に求めているわけじゃないですから。

むしろ、読みにくくなるので過剰な文章表現は邪魔者扱いされる可能性があります。

そもそも需要が少ないのだから、供給だってそれに合わせたものになるのは道理。



特に作品を特定はしませんが、需要の問題もあってライトノベルはキャラクター描写と物語に重点が置かれています。

もちろん魅せる文章を書く作家さんだって大勢いるわけですが、そういう方は大抵境界型作家と呼ばれる存在にシフトしていきます。

また、好んでライトノベルを読む層(例えば私がそうです)は、華麗な文章が嫌いなわけではないですが、キャラクターや物語の評価に重きを置いていて、文章については2番目3番目以下になる傾向があります。

つまり何が言いたいかというと……

ラノベはつまみ食い程度にすぎない方は、人の感想を参考に購入本を決める際に「文章についてはどのように評価されているか」をチェックした方がいいかもよ?


■追記
うわ! 気分転換に書いたものがこうも注目されるとは(汗

後から自分で読み返してみて、上は「こりゃ誤解を受ける文章かな?」と感じたので少し補足。


つまりライトノベルに求められるのは

●わかりやすい文章

なんですよね。芸術家よりも職人の技。いろいろ凝った表現もいいけれど、読みにくくなってしまっては意味がないということです。

もっと凝った表現などを使えるけれどもあえて使わずにわかりやすい表現に留める、とかそんな感じ。

誤解のないよう言っておきますが、私自身は凝った表現とか、わかりにくいけど味のある文章も好きです。

例えばデビュー当初から執拗に押してる「あの人」とか。あの人の場合は、あまりわかりやすい文章になりすぎると個性も一緒に死ぬんじゃないかとよけいな心配をしてみたり。


URL:http://d.hatena.ne.jp/tonbo/20070714/p1


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■[Critique][制度言語]極楽トンボさんから教えていただいたこと、そして新たな疑問 2007.07.14.

 まさか『まいじゃー推進委員会』の極楽トンボさんからトラックバックを戴ける日が来るとは。

 ココログからはてなに移行してよかったなあ。*1

■極楽トンボ「ライトノベル作家の文体」2007.07.14

http://d.hatena.ne.jp/tonbo/20070714/p1

 的確なお答えを戴いてありがとうございます。疑問に思っていた問題がほぼ解決しました。

(以下、強調は引用者による)

 多数派の読者は流麗な文章など別に求めているわけじゃないですから。

 むしろ、読みにくくなるので過剰な文章表現は邪魔者扱いされる可能性があります。[極楽トンボ2007]

 もちろん魅せる文章を書く作家さんだって大勢いるわけですが、そういう方は大抵境界型作家と呼ばれる存在にシフトしていきます。

 また、好んでライトノベルを読む層(例えば私がそうです)は、華麗な文章が嫌いなわけではないですが、キャラクターや物語の評価に重きを置いていて、文章については2番目3番目以下になる傾向があります。[同上]

 これをまとめると、次の二点になると思います。


ライトノベルの主要購買層は、キャラクターの個性と物語の評価に最も重きを置く。
ライトノベルの主要購買層は、文章の流麗さ(言葉遣いや文体、リズムなど)をライトノベルにあまり求めないで作品評価をする傾向がある。

 ということは、同じ「小説」というカテゴリで売られているとはいえ、ライトノベルの魅力は「文体の魅力で売る小説」とは別の評価基準を持っていると考えても差し支えない、ということが、どうも確かなようです。*2「ライトノベルには、ライトノベル独自の読みがあるのではないか」ということについて疑問が氷解して、とてもすっきりしました。

 ただ、この話を聞いて、先ほどの疑問とは別に、ライトノベル作家さんの求められていることには「(少なくとも、斯界においては)斬新なアイディア」以外に何があるのだろう、ということを感じてしまいました。*3

 もしかすると、これは大塚英志が予期していた〈物語消費〉による物語の飽和状態が、ライトノベルの評価の仕方にすっかり浸透してしまった結果なのかもしれませんね。多少なりとも(パロディ・オリジナル問わず)創作意欲がありながらも、それを色んな理由で実現できないでいる人向けのアイディア供給財。そういったものとして、現在のライトノベルは消費されているのかもしれない、と思いました。作者やイラストレータの能力が低いのではなく、それと比して読者の表現力との差があまりない“ように思える、或いは思わせられている”〔ここ重要です。実際にはさまざまな面で異なる場合が多いでしょう〕ために、膨大に、気楽に、消費されているのではないかな、と。*4

 つまり、ライトノベル作家ほどしっかりと文章を起こす気は起きないけれど、なんとなく作家になりたがっている人、あるいは文才はないと自覚しているが絵ならかなり巧く描ける人、あるいは似たようなアイディアを持ってはいるけれど、とっかかりがなくてなかなか具体例が思い浮かばない人。

 そういった人たちの創作実践TIPSとして、ライトノベルは消費されている。

 〈物語消費〉の対象になっている。

「ライトノベルの諸作品は、ある別の表現技法による模倣のしやすさによって評価される。」

 そう言うことが、もしかしたら可能なのではないでしょうか。

 しかし、それは努力の軽減というよりは、むしろ「手間」なのではないでしょうか。なぜなら、ライトノベル作家として死力を尽くしている彼らの努力をさかのぼれば、結局のところ、彼らが“ライトノベル作家として生きることを選ぶほどに”熱愛した数々のフィクションが存在すると考えるからです。*5

 しかし、もし、消費者側が、その作品にある想像力が本当に好きで好きでたまらなくて、その作品の理念のところまで真似をしたいと、受け手側が真剣に思えるのであれば……作家が培ってきたたくさんのフィクションを根元から追いかけ、作家が成した努力をはじめから自分なりに追体験した方が、結果的には効率がよいように思うのですが。

 これについてライトノベルの読者の方々は、どのような消費スタイルを意識していらっしゃるのでしょうか。

 特に、20代、30代、あるいは40代の、熱心なファン(プロではなく、アマチュア)の方々にお聞きしたい。

 10代そこそこであれば、10代の頃の私も含めて独力でそこまでする気にはなれませんし、なにしろその頃は「文章を読むこと自体の快楽」みたいなものがあるのでそんなに違和感を持たないと思うのですね。

 荒れそうなことを覚悟して、ここに提出します。

 この件についてはどうしても、他人の意見を伺ってみたかったのですよ。


*1:10代後半、まだ『月姫』が日の目を十分に見ていなかった頃に、大変お世話になりました。自転車操業・タイプムーン・それに久美沙織の動因……かなり影響を受けています。

*2:東浩紀2007『ゲーム的リアリズムの誕生』で論じられた〈環境分析〉とも関連づけられるかもしれませんね。

*3:アイディアというものは、言うまでもなく、普及すればするほど、急速に陳腐化します。つまり、商品価値を維持できる時間が極めて短い。ライトノベル作家は、それに併せて新刊を続々発刊しなければ、とても立ち行かないでしょう。

*4:とすれば、敷居の低さをアピールするために努力するのも、ライトノベル出版業の仕事なのかもしれませんね。真似のできないようなものは売れない、というのであれば、そういった戦略も十分考えられます。「文体等のオリジナリティを捨てたほうがより評価される」という極楽トンボさんの分析とも、整合する仮説です。

*5:その点において、私はライトノベルの出版に従事する人々を手放しで褒め称えます。自分が素晴らしいと信じるある種の想像力を保存することに、人生を賭けて立ち向かう。これはもう、否定し得ない正義以外のなにものでもありません。たとえ、利害の衝突が誰かと起きてしまったとしても、それは当人にとって間違いなく正義でしょう。そう言う意味での正義ではあると私は信じます。

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通りすがり 2007/07/15 00:39
流麗な文章が読みたければ詩集をどうぞ。難しい言葉がお好きなら辞書をどうぞ。
物語が読みたくなった場合のみ小説をお読み下さい。
私は小説、漫画、映画、等々、物語が読みたいから読んでるだけです。大抵の読者も同じだと思っています。ggincさんは?
なんだか理論が先行して、御自身が読書する時の心境さえ忘却しているように見受けられます。ある別の表現技法による模倣のしやすさによって評価される――そんなこと考えながら本を読んでいるのですか?
面白いか否か。創作物にあるのはそれだけですよ。その面白さが、知的好奇心を満たすものだったり、性的欲求を満たすものだったり、そこは千差万別ですが、結局、面白いか否か。それが評価基準ではないでしょうか。
ライトノベルだけ別と考えるなら、それも無理があると思います。ある特定のジャンルに限って、読者は妙なこと考えながら読んでいる、なんて、無茶な話がありますか。ゲーム脳ですか。
あと「文体等のオリジナリティを捨てたほうがより評価される」と、極楽トンボさんは、どこに書いているのでしょうか。「過剰な文章表現は邪魔者扱いされる可能性があります」とは書いてありますが、ggincさんは、オリジナリティ=過剰な文章表現と考えているのでしょうか。過剰=多すぎて差し障りがあることを指す言葉なのですが。それとも、どこか過去の日記に書いてあるのでしょうか。
長々と失礼しました。それでは。

gginc 2007/07/15 00:58
通りすがりさん:
ああ、どうもすみません。

「あえて平板な文章を目指すことがプロのライトノベル作家としてのニーズ対応であり、それは理に適っているのではないか」

 という意味合いでいっただけで、特にオリジナリティがなければならない、と言っているつもりではないですよ。私は「オリジナリティ」に関するナイーブな信仰を持っているわけではありません。誤解させて申し訳ないです。

 ただ、「色々な読み方による、色々な面白さがある」中での私の読み方ですので、そこについて通りすがりさんがダブルスタンダードを行っていることについては、どうぞご理解ください。

 どうもありがとうございます。

石頭 2007/07/15 10:09
正直、文体なんざ、どーでもいいですね。個人的に。読みやすくて、描写が少なく、会話だらけであれば。でまぁヒロインか女性登場人物に萌えられて、主人公視点として感情移入でいて、話として退屈しなければ。適度なカタルシスがあれば。

物語、っていったって、結局「パクリのパクリのパクリまくり」、大多数が二次創作物による現代独身男性オタク向けコラージュなわけですから、特に気にもしません。物語ってのが結局何を言っているのかよくわからんので何とも言えないのですが。

二次創作物としての引っ張り方と引っ張り元、それらのコラージュの具合が結局「オリジナリティ」となるわけで、うーん、実際はどうなんでしょうかね。

恐らくは流麗な文章を書く、佐藤亜紀氏がやはり講義で文体について、たーしかライトノベルの文体について「平坦で充分だ」旨発言していたように記憶しています。しかし、沖方丁氏は、ライトノベルの方向性として、「ブンガクとしてのライトノベル」を模索し、その中にはある程度流麗な文体があるようにも思います。マルドゥク・ヴェロシティなんかはジェイムズ・エルロイを真似たんか、みたいなことを言われた筈です。

文体、というか流麗な文章で言うのであれば、佐藤亜紀氏の心の師匠、ロリータのナボコフなんかがそのはずで、彼女はあれをベタ褒めしていますが、実際読むと、その退屈さに多分寝れます。あれが流麗な文章なのか、いや恐らくそうなのだろうとは思いますがよくわかりません。また流麗な文章で言うのであれば「テロリストのパラソル」の著者、故・藤原伊織氏(涙)の文章は、審査員にベタ褒めされています(「朝起きて、何気ない日常の風景を描写したとしても充分読める文章だ」みたいな感じ)。

では、ナボコフ(彼はロシア人でありながら英語の小説を書いて成功した、要するに言語の達人であり、達人的小説家です。日本人が英語の文章を書いて英語の作家となる。あるいはその逆のような偉業が行える人みたいな感じ)と藤原伊織氏の間に差はあるのか。あるとすれば何があるのだろうか。恐らく個々の読者による感性と時代背景などがあるのではないか、要するにぶっちゃけ趣味、みたいなオチなのか・・・と考えると悲しいですがちょっとわかりません。

ちなみに、私は「二次創作物のコラージュ」というもの、パクリのパクリのパクリにぜーぜん気にならなくなりました。下妻物語のおかげですwファッションが既に「二次創作物のコラージュ」というもの、パクリのパクリのパクリである以上、べーつにライトノベルがそーであっても、問題はないよなぁ、と思うようになりました。

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あとは、恐らく以下の意見は妥当かと思います。今はマスプロダクトによる大量消費財としてのライトノベルでしょうから、「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」でありその意味で

「あえて平板な文章を目指すことがプロのライトノベル作家としてのニーズ対応であり、それは理に適っているのではないか」

というのは妥当かと思います。ただですね、文体はそうなのかもしれませんが、原稿用紙400枚から1000枚を平気(ではないのかもしれないが)で、二次創作物のコラージュ、パクリのパクリのパクリまくり、大量消費財として自覚しつつ書ける、というのは相当なものだと思っています。

長文乱文失礼しました。

名無し 2007/07/15 17:40
>ggincさん
ライトノベルは純文学ではなく大衆小説の部類でしょうよ。
そもそも、ライトノベルレーベルの書棚に立って、どうしてそれらのメインターゲットが文藝春秋を購読するような人々だとお思いになったのか。そこが一番の疑問です。

>石頭さん
Lolita,light of my life,fire of my loines.My sin,my soul.
Lo-lee-ta:the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap,at three,on the teeth.Lo.Lee.Ta....
原書の冒頭はこんな感じらしいです。少なくとも、
『ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。…』
これよりは流麗であるとお思い戴けるかと存じます。
まあ凄いのは原作者であって翻訳者でないのだから、文章面で評価を受けている海外の小説家は原書を当たるのが筋なのでしょう。

gginc 2007/07/15 18:10
石頭さん:
 ええ。なので、娯楽小説の一ジャンルである「ライトノベル」では、(極楽トンボさんが名指したような)「境界型作家」以外の人々は、かなりこの「キャラクターとストーリーの流れの伝達に特化した制度言語」について高いスキルを求められているのだ、という理解をしています。このスキルをしっかり見に付けるためには、おそらくその他の娯楽小説を書き、また書き続けるのに勝るとも劣らない不断の努力が必要となるのでしょう。
 ナボコフについては、以下の名無しさんへの返信をお読みください。

名無しさん:
 こんにちは。
 そうですね、ロリータへの偏執的な愛を述べるために[r,l,t]を連発する韻文を連発するのがナボコフの魔術師的なところです(まあ、ここだけじゃないってのがまたすごいですね)。
 ナボコフのこの類まれなる英語力こそが、ナボコフの小説の魅力を支えているといっても過言ではないでしょう。
 ところで、私はもともと「ラノベ読者が文芸春秋を読むような読者である」などとは考えていませんでした。そりゃ読んでいる人も居れば、居ない人もいるでしょう。ただ、その分布については数理的に確かなデータがあるわけでもないので、「私の知らない尺度でライトノベルを読み、楽しんでいるのなら、それはぜひ教えてください」と質問してみたわけです。
 ですが、今回みなさんの意見をしっかり伺ったことで、コメントして下さったかなりの割合の人々が「一般の娯楽小説」と「娯楽小説としてのライトノベル」を区別して消費しているし、あるいはするべきだと考えているようでした。「なるほど、やっぱりそれでいいのかな」と言う風に改めて思いました。
 どうも補足ありがとうございます。

Nezumi 2007/09/03 03:50
こんばんは。ねずみ(俵ねずみ)です。お久しぶりです。

まりおんさんに教えてもらい、ブログ記事を拝見しました。

唐突ですが、ライトノベルについて、「キャラクターを描写するために選ばれた制度言語」と聞いて私が思い浮かべたのは、若木未生氏の『グラスハート』シリーズ(コバルト文庫)であったりします。

90年代のライトノベルであり、議論の前提から外れるかもしれませんが、「「物語専門新聞記者」のような文章」と対を成す(かもしれない)ものとしてお薦めします。

gginc 2007/09/03 14:53
Nezumiさん:

 ご無沙汰しております。一時は大変お世話になりました。
 今回の件は、最近TRPG系のBLOGが活発になっていることを機に、俵ねずみさんの文章を紹介したくなったのでした。今後も定期的に取り上げて、多くの方の目に触れてもらえればと思っています。私自身は、「あり型」「振る舞い型」ををどのように〈ゲーム性〉を持たせる形で共有すればいいのかがうまく言葉にできず、当面は現在市販されているロールプレイ支援システム系との比較をすることで検証しようかと思っているところです(まだまだ先の話になりそうですが)。

 さて、ライトノベル系の話についてご意見を伺えるとは思っていなかったのですが(笑)、確かに、新井素子や久美沙織等のいわゆる「コバルト系作家」の一部は、文体に関する意識が大変強かったように思います。たとえば『新人賞の獲り方教えます!』などを10代前半の頃に読むと、久美の意識は恐らく、(立場はだいぶ違えど)今の冲方丁のようなオピニオン・リーダー的な面が強かったのじゃないかな、と思っていたりします。

 それに私は元々、あかほりさとるや上遠野浩平などのライトノベル(当時は「ヤングアダルトノベル」などとも呼ばれていました)を丁度良い世代に消費していたので、ライトノベルの文体“全般”をいまさら否定することはできないのですね。ですから、20を越えて改めて今の読書傾向と重ねてみたとき、自分にとっても読むに耐えるライトノベルとなると、やはり「子ども向けだからこそ気合の入った文章力」みたいなものが一つの基準として置けるかな、と思っているのでした。

 たとえば、同じ子ども向けでも『ゲド戦記』は十分読むに耐えるわけで……というのはあまりに酷な基準でしょうか。なにしろ、文体に関する厳しさ自体、「エルフランドからポキープシへ」というル=グィンの評論文からかなり示唆を受けているもので。

 若木未生は私はまだ一冊も読んだことがないのですが、今度読んでみようと思います。ご紹介ありがとうございます。


URL:http://d.hatena.ne.jp/gginc/20070714/1184412696

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■[雑記]ライトノベルの文体?ネタについて (2007-07-16)

GOD AND GOLEM, Inc. -annex A-さんで、
ポスト〈セカイ系〉としての『ギートステイト』と、ライトノベル作家の文体についての疑問(改訂版)CommentsAdd Star

古典文学を読む私のライトノベルに対する〈読み〉そのものがスタイルとして古いといわれればそれまでですけれども、もし実際そうだというのであれば、どのような〈読み〉であればあの「物語専門新聞記者」のような文章を楽しく読めるのが、大変気になっています。

と、いう内容がエントリの一部に書かれたのが切っ掛けですかね。もの凄く濃く文章を書かれる方のようですね。

で、まいじゃーさんですが
このエントリに反応しして、ライトノベル作家の文体と言うエントリで、

ぶっちゃけ文章に酔いたいなら、ライトノベルに時間割く必要はないというかむしろ期待しても不幸になるだけでしょうね。

とコメントし、他のブログさんも意見を積極的に提出してどの意見も面白い事になっています。

現在
あちこちから意見が出ていて面白いのですが、取りあえず混沌としているっぽいので、「捜査に行き詰まったときは現場に戻るのが基本だ!」という事で上にリンクを貼った二つのブログのエントリだけ注目して考えてみます。

この二つのブログの文章をそのまま比較して読んでみれば少なくとも「アナタが楽しく読める文章」は分かるんではないかと思います。

GOD AND GOLEM, Inc. -annex A-さんの書いているエントリが読みやすかったし、また分かりやすかったというアナタ
ラノベは向いてないかも。

まいじゃー分室さんが書いているエントリが読みやすかったし、また分かりやすかったというアナタ
ラノベを読んでみるといいかも。

私は二つのエントリをこう読みました
GOD AND GOLEM, Inc. -annex A-さんの文章
私が生粋のラノベ人であるからでしょうが、申し訳ないですが最初「なんて悪文だ・・・」とか思ってしまいました。

ちょっと引用。

サイバーパンクはテクノロジーとアイデンティティとの相互影響関係についてはたいへん熱心でしたが、テクノロジーが社会倫理やその中に居る共同体を具体的に、どのように変容させるのかについては、ややステレオタイプで近視眼的なところがあったと思います。

元々の意味を知らないとこの文章そのものが全く理解できません。ちょっと「ありゃー」と思った言葉を抜き出します。

サイバーパンク(この単語の意味を説明する事が既に大変です。Wikipediaを読もう。)
テクノロジー(科学技術の方が分かりやすくない?)
アイデンティティ(使いますけど、正しく、間違える事無くこの言葉の持つ意味を説明できる人どのくらいいるかな?)
たいへん熱心(同じ内容を表現できて、もっと聞き慣れた言い回しがあると思う。「とても積極的」とか? というか「たいへん熱心でした」って、なにをしたの? 描写? 説明? 肯定? 批判?)
社会倫理(含まれる概念が多すぎて曖昧じゃない?)
変容(やっぱり口語では使わない言葉ですね。「変化」などの比較的普段から使われる言葉を選ばなかった理由はなんだろう?)
ステレオタイプ(書くのは簡単だけど・・・その意味は広い)
近視眼的(ニュアンスとして分からなくもないけど、さて、具体的にどういう意味で使ってるんだろう?)
会話で使ったら聴衆の8割を置き去りにしそうな言葉の乱れ撃ち状態ですね。しかし、これらの言葉使いを見ていてしみじみ感じるのが、

「自分の意見を論理的かつ正確に表現しようと努力している」
「考えた事を正しく伝えようとするその努力の結果、文章そのものは難解」
という事でしょうか。

「伝えたい事を論理的に表現しよう」を優先して、「人に分かりやすく書こう」という部分を犠牲にしている文章だと思います。

これが「クセ」という奴なんでしょうな。

正直もの凄く読み辛いですが、頑張ってしつこく読みつづけているといつまでも味が出てくるから不思議。スルメイカみたいですね。

追記
こうした論理的な表現を追求するというのは「誰にとっても適用できる《ある種の普遍性》を見いだそうとすること」なのかな~などと思いました。文章を書くという行為に数学的な美しさを追求しているとでも言いましょうか。「完全な客観性」というものは既に否定されているとは思いますが、可能な限り主観を排しつつ客観的になろうとする挑戦とも言えるでしょうか。

まいじゃーさんの文章
こう言ってはなんですが、まさしくラノベのような文章です。

特に作品を特定はしませんが、需要の問題もあってライトノベルはキャラクター描写と物語に重点が置かれています。

もちろん魅せる文章を書く作家さんだって大勢いるわけですが、そういう方は大抵境界型作家と呼ばれる存在にシフトしていきます。

また、好んでライトノベルを読む層(例えば私がそうです)は、華麗な文章が嫌いなわけではないですが、キャラクターや物語の評価に重きを置いていて、文章については2番目3番目以下になる傾向があります。

気になった単語と言えばエントリ全部を見渡しても、

境界型作家
位でしょうか。

改行も多く、口語での語り口が中心で難解な表現はほとんど出てきません。そもそも意味が曖昧になりがちな「片仮名言葉:外来語」の使用頻度が低いのが分かるかと思います。

文章を見ていて思ったのが、

「論文などで使用されるような言葉は使わないが、意見としては分かりやすい」
「単純に読みやすい」
という事でしょうか。

つまり「人に分かりやすく書こう」を優先して、「論理的に表現しよう」という部分を犠牲にしている文章だと思います。

つまりあまり「クセ」を感じませんね。事実/意見が端的に述べられている為、文章を良く噛んで味わうとかは多分不可能でしょう。特に内容をこねくり回して考えなくとも理解できるからです。お粥みたいですね。

追記
主観的な表現の仕方が中心なので、「誰にでも通じる何か」を見いだそうというよりは「あくまで個人的見解を述べる事を追求している」ように思います。「自分はこう感じてるよ。あなたはどんな風に思うのかな?」という質問を投げかける方式とでもいいましょうか。そしてそれに反応する他者を全体(群体)を眺める事で、客観的事実をその「群体」の中から見つけようとするアプローチのように感じます。

ラノベを楽しく読む方法?
つまりスルメかお粥かって話なので、料理と同じように、とにかくひたすらいろんな種類を食べてみるしか無いでしょうね。

幸いな事にラノベは最近元気で、色々な味付けがされているお粥が出ているので、そのうち美味しいと感じる作品に会えるかも知れません。

ただまあそこまで苦労してつまらないと感じる本を読む価値があるかどうかは・・・まあ各自の判断という事になりますが、私なら「面白くない」と思った本は読まないでしょうな~。嫌いなものは嫌いだし、無理して好きになる必要が無いと思うからですけど。

もちろん、この話は「どっちが優れている」とかいう話ではないんですが、理屈抜きで好き嫌いがあるのも確かですね。

URL:http://d.hatena.ne.jp/hobo_king/20070716/1184583695


【個人メモ】

個人的好みは、まいじゃーさんの文章。

論理的と分かり易さの関係については、拙エントリー「考えること伝えること
の(9節・哲学の文章)で触れたことがあるけれど、ほとんど同じ指摘のように思われる。


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